第1章 神様の本体
一 神様は無形の主体であられる一 神様は無形の主体であられる
1・無形でおられる神様
神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言え
ば無限に小さい方です。
神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、お
なかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。
問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。
人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるの
でしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこに
でもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、
神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。
神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるの
で、霊界に行っても見ることができません。
知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在と
していらっしゃいながら主管することが一番便利だと考えられたのです。神様は無形であるだけ
に、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんは体があ
りますが、神様が来て思いどおりに過ぎたとしても皆さんには分からないのです。神様がこくり
こくりと居眠りしている皆さんの体を思いのままに踏んでいったとしても分からないのです。そ
れでどんなに便利でしょう。ですから神様は考えた末に見えない神様としているのが一番便利だ
ろうと思い、見えない神様になったという論理は妥当な論理です。
私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられませ
ん。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。
神様は無形の神としていらっしやるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙
をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、
神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。
皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継ぐことができる
精子と卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありま
すか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ること
もできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ
論理で神様がいるのかいないのかと言う時、または神様を見たのか見なかったのかと尋ねる時、
見なかったと言うことができないのです。
心の中に神様が入ってきて、いらっしやれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば
壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもで
きます。永遠なる神様が心の中に入ってくればそのようにすることができます。永遠を時間では
とらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから神様は見えなくても心は分
かるのです。
神様はどのように愛するのかと言う時に、答えるのが大変でしょう。神様は無形の神なので
どこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って心臓の中に
も入って……。どこにでも行かないところがないのです。すべてに通じるのです。それでは、神
様はどこに往んでいるのでしょうか。神様の往んでいる家は私たちの心の真ん中です。男性の心
には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って生きるというのです。
全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば
太白山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることができる能力の神様なのですが、そのような神様
を皆さんの目で見ながら生きるとしたら生活することができると思いますか。神様が見えなくて
良かったというのです。見えれば皆さんは神経が衰弱して一時間も我慢できないのです。ですか
ら神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今ま
での話は私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言った
のではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。
もしこの世界に空気が一升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪い
方ならば、世界統一は問題ありません。多分五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべ
てもっていって[お前たち統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一し
ます」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一することができますが、神様が空気をもって
そのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ私たちは生きることができません。
このように空気は生命に絶対に必要な要素です。ところが空気に対して有り離く思いもせずにど
ろぼうみたいに使っています。
天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとして
けんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えな
くて良かったのです。もし神様が見えたとしたらアメリカとソ逓がお互いに自分の神様だと争う
でしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止めることができますか。神様
は全知であられ、こんな争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見え
ることを願うのはばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。
この宇宙は神秘に包まれています。その大きさが二百十億光年にもなる大宇宙です。一光年
とは光が一年間かかって行く距離を言います。一秒間に地球を七周半も回ることができる光です
が、この光が一年間かかって行くのが一光年です。それではこのように大きい宇宙を支配するこ
とができる主人はどれほど大きいでしょうか。背が高いとすればどれほど大きいでしょうか。神
様がそれほど大きければ神様自身が足手まといな体を引きずって歩き回ることができるでしょう
か。ずるずると歩き回るとすればどれほど大変でしょうか。一度勤けば、宇宙が全部驚き倒れる
のです。神様は知恵深い方です。それで「見えない主人になろう」と考えたのです。
それでは神様がどれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様がどれほど重い
ですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければその体で
歩き回るのは大変ですが、神様は無形でいらっしやるので理想的です。財布に入れて歩いても重
くありません。また、無形なのでどんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおり
に運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこ
にでも思いどおりに運行することができるのです。
一番資重な物があったとしたら、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないので
す。それでは最高の宝物といえる神様を持っているとすれば、その方をどこにしまっておきたい
でしょうか。安全にしまっておくことができる倉庫があるとしたらどこでしょうか。その倉庫が
私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておくことができる倉庫です。
神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るので
す。そうでなければ回らないのです。また、人は自分の体より見えない心と神様をもっと重要視
しなければならないのです。
2.本来は自然に分かるようになっていた
人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいない
のかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。
赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお
乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落
しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければなら
ない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去
ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。こ
れは悲惨な事実です。
人はこの宇宙の枝道万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察する
ことのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、
人を道られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように
道られるでしょうか。
神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいら
っしゃることを歴史を通じて認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対し
て疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼
べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しな
いと否認するでしょうか。否認することができないのです。
「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の
関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は
私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場な
のです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認
識して知るようになっているのです。
私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではな
いですか。これと同じように神がいらっしやるなら神がいらっしやることを皆さんが感じなけれ
ばなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的
立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。
皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければな
りません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさを
もって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。
「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。このような表現的圈において体恤的感情をどのよ
うに体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。
そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。その
ような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、
「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。このようなことを皆
さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。
二 無形の神様は体が必要
1.体をもつためにアダムとエバを創造
神様はどうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をも
っていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば
無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、
形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。ですから実体をもっ
た枝道世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。
神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長々様々な
形体をもっか実体、そして無形の実休までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必
要です。それで神様はアダムを創造されたのです。
アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神
様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結けなければならないので、ア
ダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、
彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければなら
ない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できない
のです。
神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実
体の形状をもっか父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためな
のです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目
は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。
この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもっか垂直の父で面積がな
いので、面をもとうということです。
霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見える
でしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができ
ません。休がないのです。ですから実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければな
らないのです‥神様はどのような神様ですか゜アダムが堕落しないで完成して俎上で暮らし、天
にレ行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで見えない神様と見える
アダムがドつになるのです。そのようになればアダムが「ははは」と笑うのは神様が「ははは」
と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。何のこと
か分かりましたか。
無形の神としていらっしやる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないので
す。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので
刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょ
う。そのような刺激が必要だというのです。
神様は霊界でも無形です。形がありません。それで姿をもった人間の父母になるためには、
姿をもたなければ中心になることができないのです。神様の最後の創造目的は体をもつことです。
実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければ
ならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を着なければなりません。
実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで
体加必要なのです。(アダム・エバが)創造された目的は、神様も実体をもって実体の父母にな
るためです。その実体がアダム、エバです。アダム、エバが完成したならば神様は、アダム、
エバの心の位置に入って神様を中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権
が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権をもつのです。今日、次子権は必要
ないのです。アダム自体が長子中の長子で、エバも長女中の長女でしょう。そのようになれば
二人の息子、娘は、人類の父母中の父母になるのです。父母であると同時に、永遠な世界の王
になるのです。
なぜ神様が人に体をもたせたのでしょうか。体のない神様がいたならどれほどいいかという
のです。神様がI人でいればいいのに、問題となるような体をなぜ造られたのかというのです。
神様白身は無形の神です。無形の神様が体をもっと人間の先祖になることができないのです。体
をもった息子、娘に対そうとするので、体をもっか神様の立場へ出ていかなければならないので
す。それでアダムの体が神様の体のようになるのです。しかし神様は、アダムの心のような位置
より一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。何のことか、分かりましたか。
結局、神様は無形で形体が見えないので、形体を得て現れるのです。また、形体をもってい
る大同と万物を主管するために神様がアダムとエバの形体を着て現れます。そのようになればア
ダムとエバは神様と一体となるので、神様はアダムとエバの心のような方になるのです。アダム
とエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダ
ムのような方が神様だということを知らなければなりません。
なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエ
バを中心として管理主導することができる立場に立つためです。神様は霊界で無形でいらっしゃ
るので支配することができません。それで実体の仮面をかぶり、実体の体をもつことによって、
あの世で、地球で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を実体をもって支配することができ
る王になるために人を造ったのです。その王の顔がアダムの顔です。王を造ったので、王妃が必
要なのです。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは地
上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。
2.アダムは宗の祖先、有形の神様
神様は第一に、体を着るためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造
されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人がIつとなることができる愛の実体になれ
ば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になっ
たアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれ
ば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。
それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父
母としていらっしやってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で
体をもって父母の位置に顕現することができるのです。
実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、ア
ダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりま
せん。それがあってこそ見たり間いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダム
だというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆ
えアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妾を得る
というので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神
様の妻として創造されたのです。
神様がアダムとエバを必要とするのには二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就し
ようとすることです。もう一つは、無形の神様が形状をもって現れるためなのです。ですから、
無形の神様が有形の形状をもって有形世界と関係を結ぶことができるその基礎、その核心がアダ
ムとエバなのです。
天の国に無形の神様が一人でいて何をしますか。見えない神様では何の意味もないのです。
入間の父母になるには、体をもって感じることができなければならないのです。このような人間
と同じ体を着なければならないので、体をもつために仕方なくアダムとエバを二重的存在として
造らざるを得なかったということを知らなければなりません。
体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つに
なることを象徴します。ですから神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、
アダムとエバを遣ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その
Kとド妃の心の中に神様がいらっしゃり地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造
るのです。王国は愛の王国だというのです。愛の王国。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるよ
うになっているのであって、他のものをもってしては合わさることができないのです。
エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エ
バを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。なぜそうなのかと言えば、愛を
分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世へ行ってみれば神様は無形です。
空中で太陽のような光が二十四時間いつも浮かんでいるのです。空中から神様がみな無形で管理
しているのです。その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですか
らアダムとエバは無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムと
千八を遣ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、
.つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。
神様は愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永
遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の
先祖、真の父母なのです。皆さんは真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真
の父母の教理があります。
神様はアダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては実体世界を主管で
きないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造
物、宇宙世界を支配することができないのです。ですから神様は、愛を中心として体を着なけれ
ばならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こ
るのです。刺激が起こるのです。
無形の神様は実体がないのでその形体を身代わりしたのが真の父母だというのです。真の父
母は個人的な父母、家庭的な父母、氏族的な父母、民族的な父母、国家的な父母であり、霊界に
行ってもこれからは真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レ
バレンド・ムーンが偉大なのは何かと言えば、レバレンド・ムーンの形状を神様が使うというの
です。何の話か分かりますか。
神様は、無形の神様なのです。無形の神様が、有形の神様として現れようというのです。有
形の神様とは何ですか。堕落していない、私たちが言う真の父母です。
究極的に神様は霊的で無形なので、人間は直接神様から教えを受けたり重生の体験をするこ
とができません。それで神様は中心人物を立てて、人間が彼を通じて教えを受け重生を体験する
ことができるようにされました。この方が正に有形、無形の真の父母です。
神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見なさい。
体をもっているのです。しかし無形の神様は体がありません。体を着なければ、体をもたずして
は霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで神様がいらっしやったとしても、
神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表が
誰かと言えば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れる
のです。そうすることでアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になる
のです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、
父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。
神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標にされて
はいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたので
す。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成す
ために臨在される、愛の理想の成就の瞬回です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの
形状を使って有形世界に永存される父母になるのです。この時アダムとエバは、真の父母、真の
先祖となるのです。
三 神様は人格的な神
神様は人格的な神
1.神様は知情意をもった人格神
今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創
造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をも
つことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創道生は絶対的で神聖な方であると
見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だ
としても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じで
なければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。
神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的
な神です、そのような人格的な神が最高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を
造ったというのです。これは驚くべき事実です。
神様は第一原因的存在ですが、人間をどのように造ったのでしょうか。神様と同じように造
ったというのです。神様と同じように造るのに、神様の形状をかたどって、形状どおりに造りま
した。その言葉は何を意味するかと言えば、私が父に似ると回時に父は誰に似ましたか。私に似
たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみるとき、神様はどんな方で
すか。私のような方だと言えば、さっと入ってくるのです。
神様は誰に似たのでしょうか。神様の必要とするものが愛ならば、神様が愛するのに、神様
に似たものを愛するでしょうか、神様と似ていない動物の子を愛するでしょうか。神様は喜ぶこ
とができ、愛を分かち合うことができる相対的なものを必要とするのです。ですから人間がその
ような相対ならば、人間を中心として見る時、神は人格的神でなければならないという結論が出
てくるのです。そうでありながら、人間とはすべての要素がI〇〇パーセント和合しなければな
りません。体と心の素性において、すべてが和合することができる神でなければなりません。で
すから神様は、知情意をもった神でなければならないのです。
神様がいらっしゃるのならば、人間とはどんな関係なのでしょうか。神様が人間と関係をも
つためには、人格的神でなければならないのです。人格的神になるには、人間と同じでならなけ
ればならないのです。人間には心があり体があるのと同じように、このような素性がある人間を
造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似なければな
らないというのです。二性性相という概念はここから出てくるのです。
さあ、それでは、神様も人間のような人格をもっていますか。人と同じならば神様は男性で
しょうか、女性でしょうか。それでは男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、な
いでしょうか。神様は何性相と言いましたか。二性性相の主体なのですが、凹凸があるでしょう
か、ないでしょうか。それを考えたことがありますか。
神様が笑うでしょうか、笑わないでしょうか。神様が笑うのを見ましたか。神様も目がある
でしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、体があるでしょ
うか。既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。神様に目があるのか、ということ
も知りません。目を本当に見たかと言えば、知らないのです。神様は誰に似ましたか。誰に似た
のでしょうか。神様に似たと言うのです。そんな答えがどこにありますか。神様は誰に似たので
すか。息子、娘に似たのです。それで神様は人格的神でなければなりません。人格的神として神
様が、私に人格的最高の基準を要求するのです。人格的最高の基準とは何ですか。それはお金で
もなく、権力でもなく、愛なのです。
神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければ
なりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標
とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。
神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能
であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必
要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくることができます。黄金です
か。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」
と討い、「ひひひ」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的神ならば口が
あるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。
人格的神ならばです。
神様はいったいどんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺した
り生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どんな神
様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方な
のだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、そ
の大統領以上の方なのだな」と、こんな方を願います。大統領は四年ごとに変わるので慌ただし
くて、別に尊敬するほどでもありませんが……。
今日、この世界を探し求めてこられた神様がいらっしゃるとしたら、その神様は知情意を備
えた神様であることに違いありません。なぜでしょうか。人間がそうだからです。それは人類を
中心とした知情意ではなく、大倫を中心とした知情意です。
絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。全知全能なる神様は、
悲しみの場を避けることができるでしょうか、できないでしょうか。その悲しみとかかわること
ができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。私たちのような人間は、そ
れをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはなら
ないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることは
できないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感
じることができる主体とならなければなりません。
神様に対して正しく証した宗教団体はありません。仏教でも儒教でも、みな同じだというの
です。神様と言えば、すぐにあぜんとして物が言えなくなります。彼らは人格的な神様、知情意
を兼ね備えた神様を知らないのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しているのです。それ
が偉人だというのです。
統一教会が誇ることができるのは、神様をよく知っているということです。神様をはっきり
と知っているというのです。神様は、知情意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体だとい
うのです。それを私たちははっきり知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の
中心位置は行ったり来たりできないのです。
2.神人一体の人格神を要求
神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があり
ます。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも
先に知らなければならないこととして、これさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人
の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目
的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知って、願いをよく知って、心情をよく知る
人は、神様の願い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。
愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒と、人格的に人と同じ素性をもっ
た神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教はキリスト教以外にはないので
す。神様を父と言ったのは偉大な発見だというのです,神様を父だと言ったのです。神様を父だ
を発見したという事実は今先生が話す。神様を内的父と外的父と見て実体に一致する愛によって
続一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そん
な内容を暗々裡に解明することができる標題を掲げたという事実は驚くべきものです。そして唯
一神を論じました。ですからこの宗教は世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心としてまとま
ることができるというのです。この宗教によって世界が一つになることができる道を立てていく
と、このように見るのです。
今日、数多くの道がありますが、心情を通過することができる一つの道が歴史路程において
現れませんでした。そのような道は必ず現れなければなりません。もしそれが現れないとするな
らば、神様はいらっしゃらないのです。人間が守らなければならない社会的倫理と道徳を教えて
くれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教え
を統合し、一つの心情の骨子の上にあげられた宗教がなければなりません。そんな宗教を探して
みると、キリスト教だったというのです。キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することに
よって神様を失ってしまい、神様が私たちの父だということが分からなくなったのです。実体を
もった真の父母を失いましたが、キリスト教はその真の父母を紹介することができる宗教です。
哲学の最後の終着点は、神様を発見することです。その神様はどんな神でしょうか。絶対的
な神、不変の神、唯一の神です。神様を発見することにおいて、その神様は私たち人間に必要な
人格的神でなければなりません。私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべて
の内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての
向で通じることができる、情結節やみ旨的な面や、または知識的面で私たち人間と通じることが
できる、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、どんなに神様がいると言っても私だち
とは完全にかかわることができないのです。このように見るとき哲学は、人格的神にならなけれ
ばならないという標題のもとであがめ尊んでこなかったのです。
神様は誰に似ましたか。息子、娘に似ました。皆さんは誰ですか。神様の息子、娘です。神
様に似たのです。そして神様は人格的な神です。神様がつまらない神様でいいでしょうか。キリ
スト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知情意を中心として情緒的な人格的神を論じ
たということです。これが偉大です。そして唯一神を論じました。
神様が人格的神ならば、神様に愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間が神
様の息子、娘として生まれ、神様に対して父だと言うなら、父が必要なように私も必要なのです。
私も必要なように父も私が必要なのです。
人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何か連結されなければならないでしょうか。
皆さん、神様と言えば高いところにいらっしゃると言うでしょう。そこに私の体が連結されるで
しょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であり第一原因なる存在の神様を中心
として人生を生きていくのに、垂直のような心を中心として生きていくのであり、地球星が太陽
系を中心として角度を合わせて軸を成して公転しながら一日、二日、三百六十五日と回るのと同
じように、回りながら生きていくのです。このように見なければなりません。
神様がいらっしやるならば、神様の摂理を通して行かなければ、世界が未来に希望を残す何
ものもないという、論理的な結果として結論を下すことになりました。ここにおいて統一教会が
出てきて、神様がいるという実存性と、知情意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圈を
中心とした理想世界を実現しようとしたのです。統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にし
たというのです。